↑ 1986年立川駐屯地で展示飛行の準備をする東部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41666。この機体も後に宇都宮分校へ移動した。
↑ 1986年立川駐屯地で体験搭乗飛行の準備をする東部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41626。この機体はこの後宇都宮分校へ移動している。
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陸上自衛隊の中型汎用ヘリの数は、最低必要数であった130機を下回らないように予算化された事は前にも記述したが、一時はH型の増強スピードがB型の用廃スピードを上回り、1981年(昭和56年)にはUH-1B/Hの保有数が145機、1984年(昭和59年)には157機にまで増える事となり、此処が保有数のピークともなった。但し、この頃になるとAH-1Sの本格導入や1986年(昭和61年)からはCH-47J等の導入が始まったため、UH-1Hへの予算配分が厳しくなり、1985年(昭和60年)以降UH-1B/H型等中型汎用ヘリの保有数は急激に下降していく、そして1988年(昭和63年)には、125機と保有数量は必要とされた130機を割ってしまうのである。1980年代に入って以降は、陸自航空への衆目は対戦車ヘリAH-1Sとなっており、汎用ヘリについての話題も少なくなっていたが、中型汎用ヘリの重要性は変わらず、1989年(平成元年)頃から次期汎用ヘリの話題も少しずつ出るようになった。当然候補としては、米軍でも新鋭のUH-60であったが、非常に値の張る高級品であっただけに数が揃わない事が予想され、陸自航空の中でハイローミックスの考え方も浮上して行く。また、陸自航空では汎用ヘリUH-1B/Hの保有数の減少に危機感を持ったのか、1987年以降は年間8機以上の予算要求をして、H型の追い込み取得の舵を切っている。同時にH型をAH-1Sの仕様に近づけた強化改造計画を立て、H型改(後にJ型と改称)として1991年から予算要求していくことになる。
↑ 1986年立川駐屯地で展示された東部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41691。91号機は1996年当時としては新品であり後期発展型、それまでの機体と外形上異なるのはキャビンの窓が追加されている点。恐らく納入後間もない時期。この機体は後に西部方面ヘリコプター隊へ移動。
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↑ 1987年の百里基地航空祭に展示されたUH-1H/41648。この機体は引退までの間長く東部方面ヘリコプター隊で使われた。
↑ 1986年立川駐屯地で体験搭乗飛行をする東部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41676。マーキングは迷彩への移行の過渡期にあたり、オレンジの蛍光色の部分は無くなったが、文字などは白のままである。この機体は後に東北方面ヘリコプター隊へ移動した。
↑ 1986年立川駐屯地で体験搭乗飛行をする東部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41666/41657。陸自のUH-1Hの迷彩を見ると、各機殆ど違いが無く色分けされており、これがスプレーでの塗装ではなく型紙を使用した塗装方法であることが判る。
↑ 1986年立川駐屯地で展示飛行した東部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41648。機体は迷彩色に変わったが、乗員のヘルメットは昔の白いままである。
↑ 1986年7月の小松基地航空祭に展示されたUH-1H/41612。H型の初期生産のこの機体はその後東北方面ヘリコプター隊へ移動、そこで用廃となっている。
↑ 1986年の横田基地航空祭に展示されたUH-1H/41683。横田基地では新鋭のAH-1S(8号機)と並んで展示されたが、後方には、横田基地初展示のE-3Aが写っている。
Wings
↑ 1986年10月の木更津駐屯地航空祭に展示飛行したUH-1H/41669。H型のキャビンには国産の7.62mmの62式機関銃が付けられており、輸送部隊の護衛任務を演出していた。因みに62式はあまり評判の良い機関銃ではなかったので、現在は、12.7mmM2か5.56mmMINIMIが使われている。